占星術では、いわゆる「善」というのは射手座・木星の象徴とされている。
また、太陽、水星、金星、木星、海王星の顕著なアスペクト、理想主義も「善」の感性をもたらすものだろう。
タロットカードでは、5番目のカード「法王」が「善」に相当する。
最近、この「善」に対して、異議を申し立てる新聞記事をいくつか目にした。
最近の友人との会話でも、善や理想主義についての話題が上ったし。
善なる木星に対し、深層心理の冥王星が「ホントのところはどうなのよ」というツッコミが入った。
そんな感じ?
「もっと、欲望に忠実になったほうがいいんじゃない?」ってね。
光が強く当たれば、その分、影も色濃くなるとはよく聞く話。
善の領域が広がれば、それに比例して悪の領域も広がっていく。
悲しいかな、すべてはコントラストなのだ。
善が前面に出れば、悪も台頭する。
「十字軍物語」についてのインタビューで塩野七生がこんなことを言っている。
「自分が言っていることだけが正しいと思い込むと、必ず災害をもたらす。善意ぐらい悪をもたらすものはないと思います。悪だと手加減するんですが、善は楽しいと思っちゃっているから全然手加減しない」
この記事を読み、改めてスターリンやポルポト、毛沢東やチャウシェスクなど、20世紀、理想の共産主義を目指し、人民を指導し、自国民を大量に死に追いやった指導者たちのチャートを見てみた。
各々、見事な理想主義のポジションを作っている。
きっと彼らは、自己の善なる理想に対し、非常に忠実だったのだろう。
しかし、それこそが恐怖政治という形を招いたことは言うまでもない。
何を善とするのか、どのような善を選ぶのか。
それは実際、とても危うい。
私は今、やみくもに原発廃止論に走るの人々の言動の中にこれを見る。
情報の波に飲み込まれ、東電を悪とし、日々自分で自分の首を絞めていっているかのような、そういったナイーブな側面に、時々不安になる。
対立は断絶を呼ぶ。
「悲観をその基盤とし、不幸と悲哀を善とするこの道徳。この善悪の価値表は速やかに破り捨てなければならない」という「善悪の彼岸」で書いたニーチェの言葉を思う。
責任ある者は速やかにそれを施行し、そして国は国民の安全について議論&対策を進める。
それ以外に、私の頭には何も浮かんでこない。
白か黒かの選択肢しかないとしたら、どっちに転んでもバランスを取るのがまた難しくなるだろう。
過去の負の遺産を背負いつつ、これからの未来を作っていくしか、今は方法はない。
日本の未来に対する不安は大きい。
だからといって、自分の感性に響くものだけに反応するわけにはいかない。
全体に目を見開いていかないと、取りこぼすものが多くなる。
これは、個人の心理でも同じことが言えるかもしれない。
悪を無意識の世界に追いやっても、いつまでもそれは追いかけてくる。
むしろ悪を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識化し、影を自我に統合しなければ、潜在意識は行き場をなくし、抑圧されていく。
みなさんは、自己の善の側だけでなく、悪の側にも忠実に耳を貸しているだろうか。
己の欲望のありかを知っているだろうか。
たまには、欲望を解き放っているだろうか。
あんまり偽善に走ると、内柴容疑者にみたいになるか、クサクサした気分で人生を送るかになるかもよ。
欲望の声をふさがず、その上で善を選択できるなら、木星・冥王星は大喜びするかもしれない。
つまり、何が言いたいかというと、木星・冥王星のトランジットは、私にとって「悪徳のすすめ」だということだ。
来年の3月中旬には、この木星・冥王星に金星、火星も加わった見事な地のグランドトラインが形成される。
この時ばかりは、エロスや金儲けに走ってもいいかもね。
もちろん、法の範囲でね。
ニーチェはこうも言った。
「十分に自分自身を支配する力がなく、絶えざる自己支配・自己克服としての道徳を知らない人は、無意識のうちに善良で同情的な情動の崇拝者になってしまう」
ちなみに、タロットカードの「法王」の裏カードは「悪魔」だ。
悪魔の掲げた右手は、5番目のカードの「法王」によって授けられている祝福の逆を示し、悪魔の額のには逆五芒星が描かれている。
「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」という「旧約聖書:創世紀』」2章を踏まえて考えれば、この「悪」は、実は神の創造物であるということがわかる。
つまり悪魔は神の奴隷であり、人間に「悪」を経験させるための大事な役を勤めているということになるらしい。