心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

最近、蠍座・土星が話題になることが多いけど…

みなさん、それぞれに思うところがあるのかもしれない。

私もそうだ。

この前のブログにも蠍座土星について「こころのメンテナンス」と書いたが、昨夜、私自身も長いこと見て見ぬふりをしてきていた問題と向き合わざるを得ない機会があり、そのきっかけをくれたSさんに感謝しつつ、なるほど、私もコンサルテーションで偉そうに言っているものの、いざ自分のこととなると難しいものだなと感じている。

それは他者を通してやってきた問題のように見えたが、結局、自分自身の問題だと気付かされ、そんなこころの働きを観察しつつ、こころのどこかに、まだ少し抵抗もあるように見え、その状態を今は扱いあぐねている。

なんてことを、講座の合間のぶらぶら歩きの最中にやっていた時、これはまるでラスコーリニコフのようだなと思ったりした。

ラスコーリニコフとは言わずと知れた、ドストエフスキーの著書「罪と罰」の主人公である。

「おれは当然こうなるものを覚悟してなちゃならなかったのだ。それなのにどうしておれは、自分と言うものを知っていながら、自分がどうなるかを予感していながら、斧など振るってこの身を血で汚すようなまねを仕出かしてしまったんだろう。おれは前もってそれを知っていなければならなかったんだ…。ああ!いやおれには前からちゃんとわかっていたんだ!」

「それにあいつを殺してしまったあとできっとこんなひとりごとを言うだろうと、前もってちゃんと予感していたんだからな」

まさに私は、ぶらぶら歩きの最中、ラスコーリニコフの回想のような堂々巡りを続けていた。

究極の理想主義者であったドストエフスキーは、彼の著書の主人公たちに、悪と不正、不義、理不尽な力、欲望や善性、そういったもの中に潜む葛藤を与え、表裏一体に働く人間のこころの脆さと、それを超えたヒューマニズムへの希求を訴え続けた。

「いったいいま彼女の信念が同時におれの信念でないなんてことがありうるだろうか? 少なくとも、彼女の感情、彼女の望みは…」

罪と罰」はこのように、ソーニャの愛との遭遇によるラスコーリニコフのこころの変容体験で終わる。

やっぱり蠍座土星の時は、蠍座の作家がグッとくるね。

久しぶりに、真面目に読み返してみようかしら。

なんて考えながら、ぶらぶら歩きを続けていたら、別のこころのつぶやきのシーンが頭をよぎった。

エリック・サティのテーマ曲が有名なルイ・マル監督の「鬼火」。

あれもさ、自殺願望の青年がパリの街を歩きながらの、こころのつぶやきのシーンがあったよね。

って、そう言えばルイ・マル蠍座だ。

蠍座とこころのつぶやき、そしてぶらぶら歩き。

このセットは、なかなかハマる。

不条理の作家カミュ蠍座だし。

正月は、蠍座たちの作品の浸りつつ、自分のこころを見つめ直す機会にしようかしら。

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年を取ってから観ると、どんな印象を持つのかしらね。