今日、久しぶりに目の覚めるようなメールをもらった。
先日のアネモネの会で行ったスモールステップについて、また自己実現についてのメールだった(感想は、後ほどゆっくり考えてから返事をいたします。いつもありがとうございます)。
そのメールのほんの一部分を紹介させてもらう。
子どもは、基本的に、成長欲求のほうが強いと考えていいとおもうので、
そのまま、問題は、課題となり、解決方法にトライすることが、
そのまま実りになると、おもいますが、
大人の場合は、とくに、自己実現のテーマの中に、
じつは、かくれた「欲求」「飢餓感」を内包していることが多いとおもいます。
自分の本当の「欲求」は、
自分が、いちばん、わかりづらいものなのではないでしょうか。
その場合は、「問題」そのものが、「問題」なのかどうかを、
確かめる段階がまず、あってもいいかなと、
私は、考えてます。
とあった。
「問題」そのものが「問題」なのか?
これは、とても重要なテーマである。
私が基礎を置いているアドラー心理学では、「問題」を「問題」と捉えることはない。
アドラー心理学では、「問題」は個人の「目的」としてクリエイトされ、使用されると考える。
それをアドラーは「使用の心理学」と名付けた。
例えば、ある母親が「うちの子供は反抗的なんです」と訴えた場合、アドラー心理学的観点では、「子供が反抗的になるようなものの見方、考え方を選んでいる→実は、母親は子供に反抗されない人生を望んでいないから」という「目的」を持っているということになる。
また例えば、酒の勢いでオヤジがセクハラをしたのではなく、セクハラするために酒の力を借りた→セクハラするのがそもそもの目的だった、と考えられる。
個人全体が、こころや身体を使用し、理由としての「目的」を持つということだ。
昨日、ある占星術家と打ち合わせをしていた時、私のある言動を「あなたのそれは父親問題ですね」と指摘された。
使用の心理学から考えると、もしかしたら私は父親問題を利用して、ある事柄を対処しようとしていたのかもしれないし、また、その占星術家自身、他者の言動から父親問題と感じられるようなものの見方、考え方を選ぶことによって、自分なりの、何かしらの目的を達成しようとしていたのかもしれないと考えることもできる。
「問題」がどのようなものであれ、個人の果たそうとしている「目的」がわかることによって、個人の行動の意味が見えてくるということだ。
で、質問のほうに戻ると、だから大人の場合、「自己実現に向かえない」という問題があるのではなく、「向かわない」と自己選択があるということとなる。
akariさんの資料にあった、「できない」ではなく、「やらない」という選択をしているということだ。
それは劣等感のせいかもしれないし、関係をコントロールするためかもしれないし、所属のためかもしれない。
そもそも、ライフスタイルを変えるというのは、大人にとっては大仕事なのだ。
だから、「問題」を「問題視」せず、使用の目的を理解し、文脈(目的を達成したところで、大して効果はなかったというような)を変えていくのが効果的ということだろう。
大人の「欲求」や「飢餓感」は、社会的文脈の中では、「意味のないこと」「価値のないもの」のように扱われる種類のものだったりするかもしれないね。
でも、果たしてこれからの社会ではどうだろうか。
表向きの自己が否定している欲求は、何を恐れているのだろうか。
水のグランドトラインは、そんな潜在的欲望を揺さぶる作用があるかもしれない。
こんな蠍の月の日は特にね。