心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

桜の象徴―ある心象風景

恐らく、彼女にとって、とても大切な人なのであろう人物のレクティファイを終え、一息つく。

レクティファイをやっていると、その人の独特のリズムというか、息遣いを感じることがある。

何とも不思議な感覚だ。

うまくできただろうか。

レクティファイは、いつも不安が残る。

みなさん、お元気ですか?

新しい始まりを感じさせるお便り、たくさん届いています。

ありがとうございます。

赤ちゃんの誕生、再就職、留学、お引越し…

大きな決断をされた方もいらっしゃいますね。

私の春は、自由気ままにスタート。

毎日、足の向くまま、気の向くまま。

友人たちと楽しい日々を過ごしている。

その友人のひとりと、昔、桜の思い出について語った記憶がある。

桜の季節になると、当時、入院していた母親のことを思い出すと彼女は言っていた。

私にも桜とともに思い出される風景がいくつかある。

もちろん、その中には悲しい思い出も含まれる。

しかし、それらはどれもこれも美しい。

それは、桜が持っている姿の美しさに由来するのだろう。

桜はその散りゆく美しい姿から、悦びとともに、はかない生と死の象徴と言われる。

象徴は、ある時代、ある文化の深部に切り込めるだけではなく、個々の人間の深部に切り込めるから、時代や文化の深層をとらえることができる。

私の持っている象徴辞典の冒頭にそう記されている。

ユングの言う「象徴を理解しようとするとき、われわれは象徴それ自身と対決するのみならず、それを産出する個人の全体性と対決されられるのである」ということにもつながる。

つまり象徴とは、より全体的であり、また非常に個人的でもあるのだ。

象徴辞典では、こう続く。

象徴を近くする場合、単なる観客の態度だけではいけない。俳優としての参加が要求される。象徴は、客体の次元を土台にしているものの、主体の次元でしか存在しない…象徴は全的体験とかかわる。自分が今まさに生きているグローバルな環境に、心をすっかりあずけていると思わなければ、その意味を把握することはできない。

しかし、象徴の理解するには、その象徴に近づきすぎてもいけない。

例えば、「金星は○○という意味」といった限定を許すと、象徴の全体の意味も手からすり抜けてしまう。

そこが象徴の難しさでもあり、面白さでもある。

「象徴は近いものを遠ざけ、遠いものをたぐり寄せる。感覚によってそのいずれをも把握できるように」ということなのだ。

かすかな記憶の断片が、実はとても象徴の意味に近かったりもする。

命のはかなさと桜のように。

象徴は、いつでも面白い。

象徴をゆるゆると考えるときが、私にとっての占星術活動で一番楽しい時かもしれない。

または、レクティファイのように、他者の記憶にひっそりと触れる時も。

この春、誰かの記憶が、私のある心象風景と重なったりする体験をした。

桜とか、悲しみとか。

春は、とても美しい季節だとやっぱり思う。

青山墓地