心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

ケーデントハウスと希望

先日、オイリュトミーの帰り、ケーデントハウスとオイリュトミーの関係について、なかなか面白い洞察を得た。

言葉、呼吸、呼吸の間にある無境界の領域、身体感覚、神話、宗教的儀式など、オイリュトミーを踊るとケーデントハウスの活動を理解できるようで面白い。

ナラティブセラピー&ハウス読み講座の最後の講義で学んだひとつのセンテンス、「これまでのあらゆる経験にも関わらず、あなたはどのようにして自分なりの仕方で希望を持ち続けてこられたのでしょうか」は、やはり私にはケーデントハウス的であると思われた。

それこそ、シュタイナーは「キリスト教の本質は純粋な道徳性である」と言った。

「自分がこれほど破壊されてしまっているときに人間が本当に保養できるのは道徳性を通じてであり、未来において私たちの道徳性が生命力になる」とシュタイナーは言う。

それと同時に、講座中、「あまり行き過ぎると理想主義に陥ってしまうのではないか」という質問があった。

確かに、土星によって制御されていない、土星によって形を持つことがないケーデントハウスは、ともすれば現実感がなく、地に足がつかず、形而上的すぎるようにみえる。

けれど、前述のシュタイナーの言葉にある――自分がこれほど破壊されてしまっているとき――ように、現実に偏りすぎたとき、自分の目指す未来の方向性を調整してくれるのがケーデントハウスの役割だと私は考えている。

希望があり、それに沿った生き方があり、それを動かす認知と習慣があり、私の内側の人格を仕上げる。

そこを通って、アンギュラーハウスに戻り(もしくは12ハウスからスタートする)、場を作り、エネルギーを動かす関係性を築く。

だから、「私の魂」が喜ぶ生き様――道徳、宗教、信念、夢、理想――を選び取れるような質問をするというのは、ケーデントハウスのナラティブにふさわしいのではないか?と考えた次第だ。

まあ、でもね、講座中にも話をしたけれど、世の中にセラピーが五万とある理由は、たったひとつの友好的な手段など、心身にはあり得ないからで、だから手探りで模索しながら、その時々、臨機応変にケアの仕方を選択していく必要があるのでだけれど、「いかに苦しくとも、自分の人生に対して正面から取り組めるようになることを願う」姿勢を持てたらいいと、いつでも思う。

その時に、ケーデントハウスが示す希望の方向性、特に講座中にもお話しした、12ハウスから3ハウスにかけての個人の奥にある「これまでのあらゆる経験にも関わらず、あなたはどのようにして自分なりの仕方で希望を持ち続けてこられたのでしょうか」という質問は重要になるかもしれない。

もし、3ハウスに土星が入っているなら、自分の考える土星的象徴がこれまでの人生を支えてきたかもしれないと考えられる。

そこで、リ・メンバリングすることによって、土星との関係性をより健全なものに書き換えることができるかもしれないということだ。

確かにね、土星の制限があるケーデントハウスは、少し呼吸しづらい感じがするかもしれないけれど、土星を取り込んだ呼吸をね、意識してみるといいかもしれないね。

それは身体の機能としても、そうかもしれない。

なので、呼吸を積極的に行っていくといいかもしれない。

私の呼吸のイメージは、ゲーテの言葉にある。

呼吸の中にふたつの恩寵。

空気を吸い込み、息を吹く。

吸気は刻印し、呼気は新鮮にする。

このように、生命はすばらしく混じり合う。

刻印する時、

おまえは神に感謝し、

神がおまえを解き放つとき、

神に感謝を捧げる

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ケーデントハウスの講義の際、日本人のアイデンティティ――敗戦とともに皆が抱えた罪悪感や恥の意識などについて話したけれど、そんなことはさておき、ケーデントハウスはどれだけ伸び伸びとした呼吸(比喩も含めた)ができるかが大切になる。

内外、内外とリズムを刻み、外界と私をつなぐ。

その時、私を支えている道徳なり、希望なりをイメージするといい。

私が宇宙とともにあること、私の存在が環境と相互関係にあること、呼吸とともに社会を構成していること。

そんなことを考えながら、自分の役割を考えるといいかもしれない。

社会構成主義の勉強とともに、今後もぽつぽつ、ナラティブセラピーのワークもやってみましょう。