心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

古典か?モダンか? 事件は現場で起こっている

週末の講座に参加してくれた方々、お疲れ様でした。

大阪からNさんも参加してくれて、にぎやかなタロット講座になりました。

週末の勉強会に参加してくれたたえさんがnicoPLANETに記事を書いてくれました。

蠍座冥王星の話題になり、私が昔の恋のお話を披露したところ、それに刺激を受けて書いてくれた記事だそうです。

勉強会にて 蠍座の話

自分の中にある蠍座冥王星=8ハウスは、人から見たらどんなに無意味で理不尽で混乱していたりするのだろうか。

そんなことを考えてみると、何だかとてもいとおしいなあと思ったりして。

たえさん、シンプルで素敵な記事をありがとうございます!

そしてもうひとつはモモさんの記事。

モモさんは、火星プロジェクトの重要なメンバーで、いつも新しい視点を与えてくれるのです。

今回はコンテンポラリー風水の話。

天秤座から蠍座へ、風水の時代

ももさん、ありがとうございました。

コンテンポラリーとは時代を共にするという(con(合わせる)+tempus (時間」)」ですが、風水にも、そうなんだ、そういう流れがあるのですね。

そうか。

「基本はきちんと踏襲しつつも現代風にアレンジされたnico先生の心理占星術のように、現代の生活様式に沿っていて、強制的なルールなどを押し付けない自然なかたちで簡単に採り入れ易い風水でした」

「積極的に外側の環境に働きかけ、変化変容して成長していく時代なのかもしれません」

とモモさんの記事にもありますが、そうですね、どこを残し、どこを生かすか、これはいつの時代にもある悩ましいテーマだったりします。

つい最近、実践読み講座に参加してくれているKさんが、とてもよい質問をしてくれました。

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古典って、構造がとても美しいですよね。

あまりに調和的に感じるので、その調和を乱して都合よくモダンに応用したら、占断としての精度に影響がないのかな?

と思ってしまいました。

あまりキチキチするのもなんですが、読んでいた本の著者による、ハウスは地上を分割するものだから時間で区切るプラシーダスはオススメしないという意見も、説得力があるように感じました。

視点の問題かな?

と、同時に、今も昔も変わらない人間の本質的なものはありますが、変わっていくものもありますよね。

昔は少しの距離の外出も危険で剣も持っていったから3ハウスは火星……らしいですが、現代で命がけで小旅行する人はいません……

性に関する捉え方も国と時代でかなり違います。

ですから古典は美しい構造ですが、変わらずそのままでいいのかな?とか

占星術の哲学や精髄ってそもそもなんだろう?とか

考えますね。

アラン・レオが占星術を復活させる背景に神智学をあったそうなので、モダンとスピリチュアリズムって相性がもともと良いのかもしれません。

複雑だけど……でも試行錯誤する時間こそが宝物ですよね。楽しもうと思います(*^ω^*)

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こういうことを試行錯誤しながら学ぶ。

それ自体に価値があると思うのだが、ただ悩ましさはいつだってある。

古典派と呼ばれている人たちはトランスサタニアンをチャートに取り入れただけで目くじらを立てたり、自由な象徴解釈をしただけで目の敵のように怒りをあらわにしていたりしていたそうだが、探査機が冥王星まで行っているのに占星術だけそれを無視するっていうのも、それこそ時代錯誤だ。

プトレマイオスなど昔の占星術家は、その時代の最先端を行っていた人たちだった。

天文学、科学はもちろん、医学、地質学などあらゆる学問の最先端を担う人物であったはずだ。

だから占星術は古典ではなく最先端の技術であった。

なので、私の考えは一貫している。

天文学でも科学でも新しい情報が入った際は、占星術もそれらに見合った象徴を直ちに取り入れるべし」だ。

これまで、そうして占星術は発展してきたはずだから。

それと同時に、もうひとつの考えもある。

象徴とは人の集合意識、集合無意識が作り出すものなわけだから、多くの人が情報なり、イメージなりを共有した時点で、それはもう既に時代の知的財産として固定されていくのではないか(最後の固定、風サイン、水瓶座)。

古典派よりモダン派が多数派を占め、その意味や役割が社会に浸透した時点で、その構造なり象徴言語は、時代に芽吹いたのではないか。

それならば、コンテンポラリー=時代をともにするという考えのもとに確立したものとして受け入れざるを得ないのではないか。

それが私の占星術に対する考え方だ。

けれど一方で、Kさんが書いてくれているように伝統占星術には美しい構造があるということも私は大きく同意する。

私の講座では上級クラスで古典(ホラリーとコンサルテーションチャート)を学ぶのだけど、それはなぜかというと、古典を勉強して始めて知った占星術の知恵なり豊かさなりがたくさんあるからで、それを知ってほしいからだ。

古典の知恵はシンプルで合理的で無駄がない。

とてもよくできた構造をしている(ティルメソッドも俺流だれど古典のエッセンスがちりばめられている)。

けれど、なぜ上級クラスで学ぶのかというと、やはり今の時代では伝統的知識は副次的に使うので十分だと思っているからだ。

機能しないものもあるし、機能しても使いにくいものもあるし、そもそも現代の文脈にはそぐわないものもあるし、どんなに高尚で美しいものであっても現場で使えなければ、現場で使いやすくなければ、それは時代から取り残されても仕方あるまい。

私は現場主義なので、現場の人に使ってもらえるものを提供したいのだ。

なぜなら、いつの時代だって事件は現場で起きている。

現場にいるとルールなんて減ったくりもないことだってある。

現場は例外しかないのだ。

人生も営みも痛みも癒しもすべて生ものである。

ルールが当てはまるわけがない。

アカデミックな学問=9ハウスではなく、現場で使える知識=3ハウスと技術=6ハウスにまで落とし込めなければ知識は形而上のまま、知識は地上化されずに終わっていくだろう。

でも、そんなテーマが話題になるということは地から風へと時代意識が移行しようとしている継承みたいなものかもしれないね。

先日も鑑定中に「ら抜き言葉」が主流になったと話題になったが、言葉なんて特にそうだろう。

そうやって時代は様々な変化を遂げて今に至っている。

伝統を守るのか、時代の流れに乗るのか。

伸るか反るか。

果たして自分の哲学は、そもそもどこにあるのか。

自分らしい選択ができれば、時代とは関係なく、その選択自体に価値がもたらされると思うけれどね。

週末、1dayの古典講座やります。

参加者は珍しく男子率が高い!

そんなこんなの話もしてみたいですね。