最近、やる気が出ない。もしかしたら、ずっとそうかもしれない。ずっと何をやったらいいかよくわかってないのかもしれない。
昨日の生き方働き方を考える職業占星術のクラスの冒頭でそのような話があった。よくある相談のひとつだが、こういった絶望感というか、自己疎外感というのは、本当にやっかいだと思う。
この疎外感は、蟹座・月ー山羊座・土星的、活動サイン的な未解決な問題として考えることができるのではないか。よくそのような話をすることがある。
フロイトの言葉を使えば、自我と超自我の関係となるだろうか。「わたし」の中にある検閲官――「~すべきである」「~してはいけない」「~するのはよくないことだ」といった社会感覚を担当する高次の「わたし」。超自我は、常に「わたし」の内で「あるべき姿」、こうありたいという「理想の自己像」を求め、自我に揺さぶりをかけてくる。
『世界は贈与でできている』の著者、近内悠太はこのように書いている。
自我と超自我の間のズレ、ねじれ、矛盾、葛藤、揺れ動きを僕らは総称して「心」と呼ぶ。
「自我と超自我のあいだに立ちすくみ、どちらにも転ぶこともできず宙吊りにされた」存在こそが「わたし」であると著者は言っている。
まさに多くの人が蟹座・月ー山羊座・土星のズレ、ねじれ、矛盾、葛藤、揺れ動きのあいだで身動きがとれず、そしてどちらかといえば、求められる役割――山羊座・土星・MCをこなし、自分の感情を持て余しつつ、人によっては体調が、人によっては日々の生活がままならなくなって、休んだり、ひきこもったり、何かを過剰に求めたりして、やり過ごすことになる。
そして、今、まさに火星が蟹座入りした。冥王星は、今、最後の山羊座運行を開始した。そして太陽乙女座期のイングレスチャートでは、MC土星が高い位置に君臨し、真向いの4ハウスの金星と拮抗しているように見える。金星――自分の「らしさ」を生きるのか、それとも土星――社会感覚や規範を優先するのかを問われている。
この解決策の一つを先日のブログ「心を右へ左へスウィングさせて、一番いいところに落ち着かせる 今の「わたし」の一番いいところはどこだ?」で書いたわけだが、今日はもう一つ違う提案を。
今日のブログのタイトルにも使った蟹座の画家である東山魁夷が生涯大切にしたという恩師からの言葉。
心を鏡のようにして自然を見ておいで。
先程、山羊座・土星は自分が理想とする自己像と書いたが、もう少し違う解釈で山羊座・土星・10ハウスを捉えてみたい。
山羊座は地エレメントである。地エレメントについて、私はよく「泣いても笑っても、今の自分の等身大の姿を教えてくれるもの」という表現をする。また山羊座・土星は骨や歯、髪や肌という人からも目に見える部位を担当していると意味づけられている。ということは、山羊座・土星・10ハウスとは、
現時点で「わたしはこういう人間である」と他の人も認識している状態、現在進行形の自分自身の姿を示すと言えるだろう。
私は〇〇会社の社員だ
私は母親だ
私は離婚をして、現在、独り身だ
私は郊外に家を持っている
では、そういった事実に思えるような認識を私の心は喜んでいるのだろうか。心を鏡のようにしたとき、そこに写った姿を「わたし」として受け入れたとき、どのような想いがわいてくるだろうか。もし、その姿に満足できないのだとしたら、どのような姿、どのような風景を鏡に映したいと思うだろうか。
ひとまず、今、鏡に写った姿を受け入れるしかない。望むと望まざるとにかかわらず、それが今の自分そのものであることは間違いない。甘んじで受けようではないか。
けれど、もしもっと見たい姿、見たい風景がそこにあるのなら、そのイメージをモチベーションにして進んでいくこともできる。映したい姿、映したい風景を求めて生きることもできる。
優しい自分を映したいなら、それを求めて生きればいい。いつか、鏡にそのような姿が映るかもしれない。または、まだ見ぬ風景を追い求めて、探し続ける旅に出たっていい。
東山魁夷は、この絶筆となった作品にこのような言葉を添えている。
これは何処の風景と云うものではない。そして誰も知らない場所で、実は私も行った ことが無い。つまり私が夢の中で見た風景である。
私は今迄ずいぶん多くの国々を旅し、写生をしてきた。しかし、或る晩に見た夢の中 の、この風景がなぜか忘れられない。たぶん、もう旅に出ることは無理な我が身に は、ここが最後の憩いの場になるのではとの感を胸に秘めながら筆を進めている。
私もそのような風景を追い求めながら、心を鏡のようにして生きていきたいと思う。
しかし!月イチ勉強会でもお話ししましたが、今の時期は本当に大事だなあ。自分の心がどんな風景を映し、どんな理想を求めたいと思ったのか、注意してこの期間を過ごしてみたいところだ。