心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

経験に与える意味

経験からではなく、経験に与える意味によって、自らを決定する。

これもやはりアドラーの言葉だが、この言葉を今朝のニュースの一覧にあった市川海老蔵の言葉から思い出した。

すったもんだやった後の言葉。

「何でも栄養。必要じゃない経験は与えられないと考えてる」

芸人だから、何でも肥やしになるかもしれない。

けれど、私たちのような職業も同じではないだろうか?

経験に良い悪いの判断を下すのではなく、どのような意味づけをしていくか?

現場にいると、そこが非常に重要であることがわかる。

病気になった。

彼が去って行った。

会社をリストラされた。

一般的に不幸といわれる出来事。

これらは、果たして本当に不幸なだけの出来事なのだろうか。

確かに、その時、天空では軸に天王星冥王星がタイトなアスペクトを組んでいるかもしれない。

そして、会社の中でのプレッシャーに押しつぶされ、精神的にぎりぎりのところを歩んでいるかもしれない。

鑑定ではこう言う。

「あと1年我慢すれば、きっとよい人生が開けてきますよ」

または彼氏ができて、仕事も昇進して絶好調という時期。

天空では、ノーアスペクトの金星に木星が乗り、天王星が軸にトラインしているかもしれない。

やはり、鑑定ではこうだ。

「最高の時ですね」

しかし、その後はどうだろう。

天空では、天体は刻々とその配置を変えていく。

禍福はあざなえる縄の如し。

災禍と幸福とは、重なり合う縄のように交互にやってくるものだ。

またはタロットカードの運命の輪のように、人生は常に上り調子、下り調子を繰り返している。

出来事に一喜一憂しても、実際は何も意味がない。

何人も、そういったサイクルから逃れることはできない。

また、もし避けられたとしたら、他のポジティブな可能性も避けることになるだろう。

人生とは、そういうものだからだ。

そして、もしも今「自分の人生が不幸だ」と感じているとしたら、それは自分の人生に「不幸」という意味づけをしていることに他ならない。

何をやっても失敗する。

こういった人に思い出せる限りの成功体験の話をしてもらうと、実にたくさんのエピソードが出てくる。

子供のころ、描いた絵をほめられた。

体育祭でリーダーシップを取った。

高校の時、規則を変えてもらうよう先生に直談判した。

鑑定中、みんな楽しげに記憶を語ってくれる。

なのに、たったひとつの「失敗の意味づけ」に引きずられ、自分の人生は不幸だと感じてしまうのだ。

人生にそういった意味を与えてしまっているのは自分自身だと、もう一度思い出さなければならない。

一方で、理想主義の強い人々は、ネガティブに感じられる経験を封印し、自分自身に許可を与えられる記憶だけを覚えている。

だから、不幸な出来事を避けるため、人生が狭まってしまうのだ。

私の好きなタゴールの詩に、こんなのがある。

危険から守られることを祈るのではなく

恐れることなく危険に立ち向かえるような人間になれますように

痛みが鎮まることを祈るのではなく

痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように

(中略)

救われることばかりを渇望するのではなく

ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように

成功の中にのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく

自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じられるような

そんな人間になれますように

病気、虐待、いじめ、別離、死別、挫折、失望…、生きていれば数々の打ちのめされる経験を味わう。

けれど、私たちは人々のそんな体験を扱う仕事をしている。

たった今、孤独のなかにいるとしても、それが誰かの痛みのケアにつながるかもしれない。

いじめられた体験を持っていなければ、いじめの本当の苦しみには気付かない。

だからこそ恐れず、たくさんの経験をし、そこに価値のある意味づけをしてもらいたいのだ。

10年以上前、まだブレイクする前の市川海老蔵の歌舞伎を厳島神社で観た。

美しい声と圧倒的な存在感を持ち、「これは素晴らしい役者になるだろう」と感動したのを覚えている。

その才能が若気の至りでつぶされないでよかたっと、心から思う。