心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

他者理解として形容詞を見直す―150度的アプローチ

形容詞って難しいね。

昔、友人に「等々力渓谷は、清々しい、とっても素晴らしい所だから是非行ってみて」と言われて、友人を連れて行ってみたけど、ガッカリして帰ってきた(等々力渓谷好きの人ゴメンなさい!)覚えがある。

清々しいというほどでもなかったなあ…

講座でもなるべくたくさんの実例を使って、象徴の事象を説明するのだけれど、やはり私の理解とは違った意味で伝わってしまうことがよくある。

土星の強いチャートですね」といった言い方を私はよくする。

そうすると、生徒さんに必ず、「強いってどのくらい強いんですか」と聞かれる。

あれこれ説明することはできても、私の感じている印象まで伝わっているかどうか。

計量カップでは図ることのできない感覚を果たして共有できているのだろうか。

形容詞とは非常に抽象的であり、そして個人的な感性に由来する。

良い、悪い、強い、弱い、多い、少ない、新しい、古い、早い、遅い、易しい、難しい…

占星術の学習でよく使用されるこれらの形容詞も、捉え方によって、まったく違うイメージになってしまう。

コンサルテーションチャートやホラリーなど、古典的な吉凶を分けるような象徴の意味取りをする場合は、特にそうだ。

先日も生徒さんが鑑定の現場でコンサルテーションチャートを使った際、ASCの支配星がイグザルテーションしていたので「しばらくいい時が続く」という言い方をしたら、「いい」ってどう「いい」のでしょうかとお客さんに言われたと言っていた。

その天体が入室しているハウス、これから吉アスペクトを取る天体、またミューチュアルレセプション関係にある天体など、「いい」を説明づける方法はないわけではないが、その意味を果たして共有できるのかどうかは疑問である。

どこまでいっても、形容詞は曖昧なものなのだ。

だからこそ、吉凶を断言する鑑定には注意が必要なのだろう。

もしかしたらクライアントの中には、占星術家から「いい」と言われたら、こちらの予想をはるかに超えた「いい」を想定する人もいるかもしれないし、「悪い」と言われたら、絶望の淵に立っているくらいのイメージを持つ人もいるかもしれない。

良いか悪いかを相手と同じ感覚で共有するためには、現場でのたくさんの確認作業が必要になってくる。

だから、カウンセリングの技法として、クライアントが使用した言葉をそのまま繰り返し、印象を確かめるというやり方がある。

ク:会社に行くのが辛いんです…

カ:そうですか、辛いんですね。どのように辛いのか説明してもらえますか?

という感じだ。

でも私たちは心理カウンセラーではなく、占星術という技術を用いて現場でしっかり答えを探していくことを求められているわけだから、そうオウム返しばかりしているわけにもいかないが、だからこそ、形容詞の確認作業として、相手の持つ印象を基準にし、その幅で話を具体的に展開させていく必要がある。

そこは、完全に相手の基準で進められていく。

時にこちらが違和感を感じていたとしても、相手の基準が真実性を持っていると考えるのが鑑定の現場なのだ。

こちらの思い通りにいかないのが「他者」だ。

私の古いメモ書きの中に、ある本からのこんな引用文がある。

他者は「私」にとって、力として、抵抗として出現する。「私」の思いのままにはならない事実は、そこに他者がいることの証明である。他者としての来談者は、面接者が正しいと思っていたことすらも覆す力を持つ。それが他者の力である―――来談者に出会って圧倒されることがあるのも自然である。相互性とは、来談者が考えることが、面接者よりも正しいことがあるという、当たり前の意味でもある。つまり、来談者から圧力を感じることが出来るならば、相手のほうが正しい点に気づくことも出来る。来談者の話の正しい点が分かれば、それだけ心の深い話を聞くことも出来る。

私の講座では、冥王星を「自分では思い通りにできない他者からの影響」として位置づけている。

そして、乙女座的性質も「相手に合わせて自己の知性や分析過程、技術力を修正する力」と考える。

つまり150度的アプローチは、自分のやり方や価値観とは違うと感じるものを「知的または心的に理解する技術」と捉えることができるということだ。

相手が辛いと言えば辛い。

けれど、その辛いを私の感覚で測ることはできない。

形容詞を相手の持ち物として変換し、相手の言葉で理解しなければ、現場での他者理解は成り立たないだろう。

形容詞の確認作業をする。

それをこれからの鑑定の作業に加えてみるといいかもしれないね。

形容詞の印象は、年齢とともに変わるものでもある。

「若い」とか「古い」とか、また「うれしい」とか「優しい」とか、10年前とは形容詞の使い方も大きく変わっているはずだ。

等々力渓谷も、もしかしたら今だったら「清々しい」って感じるかもしれない。