心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

”術”は誰のものか ”吉凶”は誰が決めるのか

という話。

昨日、生徒さんから、タロットを教えているとある先生が、「悪いカードが出た時は、私の場合は、相手に伝えない」ということを言っていたのが気になったというような話を聞いた。

この辺の話は、現場ではよく聞かれますね。

彼とうまくいきますか。

就職は決まりますか。

子供の受験はうまくいきますか。

母の病気はよくなりますか。

テーマが重ければ重いほど、答えを出すことにプレッシャーを感じる。

どんなにベテランになっても、相手に厳しいことを伝えるというのは、慣れるということはない。

それでもね。

もちろん、仕事のスタイルは自分で好きに選べばいいと思う。

自分流のスタイルを作っていくのは、大事なことだ。

でも、”術”というのは、個人の好みや価値観を超えたところにあるはずだ。

一個人の力を超えた、その先の、時や場のシンクロニシティの力を利用する。

それは、とても神秘的で奇跡的な体験なのではないか?

「私」がどう思うかどうかは関係なく、”術”に信頼を置き、その結果を誠実に伝える必要があるのではないか?

そんなふうに、丁寧な気持ちで”術”を利用できたら、この仕事はとても幸せなのではないかと思う。

”術”は、「私」のものでもなければ、「相手」のものでもない。

時と場と人の調和から生まれた、全体のエネルギーのものだ。

確かに、相手にとって好ましくない結果を伝えるのは、時にとても難しいことではあるけれど、勇気を出して、”術”が示唆する結果に身を委ねてみるといい。

または、前述の「悪いカードが出た時は…」の、「悪い」という価値観、そこもしっかり考えてみる価値がある。

果たして、結果に対する吉凶は、個人が判断できるものなのだろうか。

「悪い」と簡単に判断できるものなのだろうか。

塞翁が馬、

禍福は糾える縄の如し、

損して得取れ、

負けるが勝ち、

怪我の功名、

災い転じて福となす、

といった言葉にあるように、その先の先の人生がどう転ぶか、個人の価値観ではかることができるのだろうか。

喪失の先に出会いが、悲しみの先に理解がある。

経験は人を成長させる。

強くたくましく、優しく温かく。

私たちが、個人の価値観や好みによって、相手からそのような機会を奪ってはいけない。

ユングの言葉、

自然に物事が起こることを妨げない、それが叡智だ

とあるように、目の前の経験をひとつの人生の流れと捉え、勇気を持って乗り越える力をサポートする。

それが、私たちにできることなのではないかと思う。

だから、鑑定するものが出た結果に対し、ビビったりしないように。

どのような未来も乗り越えられると、どんと構えられるといいよね。