心理占星術と未完成な日々┃nicosmic life

自分自身が納得できる人生を歩むために、ホロスコープの構造を利用する

占星術について少し考えてみた

というのもここ最近、仲間内で占星術は科学か統計学かといったような議論が行われていたからだ。

占星術の可能性を一般の人に理解させるのは難しいということから発展した議論だった。

そこでここ数日、占星術とはどういう位置づけ(自分の中で)なのか、自分なりに思いをめぐらせてみた。

言い分はたくさんある。

私が携わっている心理占星術は、人の心に近づくツールとして素晴らしいものだ。

考えに考えて、改めてそう思った。

日本には気軽にカウンセリングに通う文化はない。

けれど、心療内科に行くほど思い悩んでいるわけではない。

でも、ほんの少しだけ軌道修正のための後押しがほしい。

この選択は、自分にとって何を意味するのか。

人生が何となくパッとしない理由は何なのか。

例えば彼との問題、職場の人間関係、先の見えない未来、目に見えないはずの心の漠然としたモヤモヤの理由を教えてもらえるなら。

心療内科で薬を処方させるのではなく、もっと積極的な目的のために人生の方向性が導かれるなら…ホロスコープは人生の良き味方になるはずだ。

けれど、そんな心理占星術の効果を一般の人に納得させるのは難しい。

そんなことは私もわかっている。

だから一度、違った視点で占星術を考えてみよう。

そこで、プラネタリウムに行ってみた。

テーマは「ガリレオから最新の宇宙まで」。

ガリレオが宇宙観測に望遠鏡を用い、地動説を発見してから400年。

私たちは一体何を発見したのか…チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とともに探っていく。

木星やら火星やらの説明を聞きながら、私は考えた。

火星は昔、鉄の象徴だった。

それは間違っていない。

火星が赤く見えるのは、地表に酸化鉄を大量に含むためだ。

木星は拡大、保護の象徴だ。

それも間違っていない。

木星は、強い重力を持ち、彗星衝突を引き受けて内惑星を保護してきた。

そして66個の衛星を持つ。

これは、木星のまさしく「保護」という象徴にぴったりだ。

科学や統計学なんか実際どうでもよく、人は象徴を必要としているということだ。

ラカンの言う「自己の内に沸きあがるもの」でもいい、言語学など「生きた時代の文化的背景、概念を共通理解」でもいい、私たちは太古から、自然や自然を超えたものから、何か重要な意味を見出す必要があった。

宗教でも芸術でも、私たちは「大いなるものから見出す」ことをせずにはいられない。

私が占星術をやる理由は、こういったロマンのためだ。

その理由だけで十分だ。

何万ものインチキの星に抱かれ、しみじみ思った。

今日はコンサルテーションの最中、とてもうれしい申し出があった。

キャリアもあり、大学で講師を務めているクライアントが占星術を学んでみたいというのだ。

会社で人材育成もしている彼女は、占星術のスキルが役に立つのではないかと思ったそうだ。

私は手放しで喜んだ。

彼女のような人が占星術に興味を持つようになれば、きっと良い形で社会に活かされるようになるだろう。

このように裾野が広がり、層が厚くなっていくのはうれしいこと。

彼女は最後に言った。

「昔から星を見るのが好きだったんです」

私もそう。

そういう理由で占星術は何千年も生き続けている。